ネクタイの起源は、17世紀後半、ルイ14世の近衛騎兵たちが首に巻いていたスカーフのような布にあるといわれています。この布を「クラバット」といい、現在でもフランス語ではネクタイの意味で使われています。おおよそ300年以上の歴史があるものなのですね。もともと、ある組織に所属していることの印として生まれたものですから、現代のネクタイも「私は仕事としてこの場に臨んでいる」という意思表示、少し大げさにいえばビジネス場面での印施といえるかもしれません。2005年夏、口本では「クールビズ」という言草加流行になり、ノーネクタイのスタイルも「股的になってきました。ただ、クールビズの第一の目的は、より涼しい服装をすることで冷房に使う子不ルギーを節約しようという環境保護にあるわけですから、ノーネクタイそのものがビジネスの場而で全面的に認められたというわけではないと思うのです。実際、営業のお仕事をされている方には、社内ではクールビズでもお客様のところに営業に行くときはネクタイをしていく、という方もたくさんいらっしゃいました。
何年か前に紺のカシミアのコートを買った。テーラード衿のダブル、オーソドックスな形だ。このコートを買ったとき、もうこれ一枚で充分だわ、何年も着られるし流行もないし、これさえあればという気持ちだった。ところが、毎年毎年このコートに腕を通すたびに、どうしても最初の新鮮な気持ちは失せていく。また、これね、これしかないのね、と高額を出して買ったジョルジオ・アルマーニのコートなのに、人間の業は初心を忘れさせてくれる。冬だけのものだし、クローゼットはかさばるし、という思いからコートは何枚も要らない、という結論になっていた。お気に入りの上等のコート、その気持ちをずっと持続するためにも、毎回のお出かけに何も考えずコートならこれ、と着る姿勢を考え直すべきだと考えた。私の場合、以前(これもかなり前)セールしていて買ったミッソーニのコート、ニットと布のダブルフェイス。他には七分コート、スエードの半コートなどが寒い冬を彩っている。ミッソーニのそれはとても大袈裟で、雪でも降る日でないと着られたものではない。七分や半コートは、やはりロングコートの役割とは別、などと長々と理屈ばかり並べ立てる心の裏を見破られた?そうなのだ。新しいコートが欲しいのだ。今一つ新鮮な気分が欲しいのだ。
ファッションから「降りた」男性は、別の枠組みで「毎日微妙に違う自分を演出する」楽しみに耽っているのではないか。もちろん、その一方には、それこそビジネスのことで頭がいっぱいで、「着るものは母あるいは妻任せ」という男性もまだ圧倒的に多いかもしれない。その場合にはとりわけ、サラリーマンであれ政治家であれ、スポーツ選手であれ大学教授であれ、芸能人であれ「組」の方々であれ、着る服はすべて「スーツ」と呼ばれるものであっても、それぞれが醸し出す雰囲気ハットても同じ「スーツ」とくくる気にはなれないほど、なぜかまったく異なるものとなる。つまり、スーツのシステムにおいては、同じ構成要素で多様な表現が可能なのだ。この性質そのものが、スーツの普遍性と長寿を支える底力でもあるわけだが、スーツの歴史を概観してみると、どうもこの性質は歴史のなかで鍛えられ、はぐくまれてきた性質にほかならないのではないかという気がしてくる。というのも、ラウンジ・スーツが完成するまでに、スーツは多様な表現の基盤となるようなエッセンスを、排除するのではなく、着々と取り込み続けているのである。